2018年度 東洋史部会発表要旨 |
1.元末徽州の書院山長と秩序維持―『婺源沱川余氏族譜』所収文書にみる 九州大学 飯田 和佐 『婺源沱川余氏族譜』(ハーバード燕京図書館蔵、清抄本、1巻)は、万暦年間の南京戸部右侍郎余懋学が撰した、徽州府婺源県沱川郷の余氏の族譜である。この族譜は、宋代の始遷祖から弘治年間に至る族人の系譜と事績を記すが、特に元代~明代前期の主要な族人に関する公文書の原文を掲載している点で貴重な文献である。それによれば、余氏は、元代後半以降近隣の書院の教諭や山長に任命され、明代前期にも糧長として税糧徴収・運搬の重責を担っていた。 『婺源沱川余氏族譜』には、元末に余元啓を徽州路明経書院の山長に任命した「箚付」や、徽州を支配した朱元璋が余元啓に地域秩序の維持を指示した「榜文」が収録されている。元明交替期の郷村秩序維持については、多くの研究が蓄積されているが、本発表では、これらの文書の内容形式を考証するともに、そこに記された有力宗族の士人層による治安維持について検討を加えたい。 |
2.重刻碑にみる近世山西の水をめぐる「伝統」の形成過程 大谷大学 井黒 忍 本発表では、山西省曲沃県の西海村龍王廟に現存する重刻碑を含む水利碑群を用いて、水利用に関わる「伝統」の形成過程を考察し、そこから地域社会の変容の一端を明らかにする。乾燥、半乾燥地がその大半を占める黄土高原地帯においては、水資源の稀少性が個人・集団間における衝突を生み出す原因となるだけでなく、平和裏に地域社会の秩序を維持し、水資源への公平なアクセスを保証するための管理・分配の仕組み―「伝統」を生み出す原動力ともなった。ただし、これは社会内部における階層性を是正するといった作用を持ちうるものではなく、むしろその階層性を含み込みながら成立し、さらにこれを助長するものでもあった。こうした状況は、16世紀以降に顕在化した地権と分離した水権の単独売買という事象に端的に見られるのみならず、18世紀における人口急増を経た後、19世紀における伝統的水利秩序の再確認が、宗族の再結集の動きと連動して行われていることなどからも見て取れる。 |
3.海を渡る水産知識 ―民国期中国における江蘇省水産学校の創立と水産教育のはじまり― 京都大学 楊 峻懿 清末中国において日本へと視察に赴いた知識人・実業家たちは日中水産事業・水産教育の格差を痛烈に認識し、水産人材を育成するために、多くの留学生を日本の農商務省水産講習所に派遣した。中国水産事業の開拓の使命を担った彼らは、帰国後まもなく母国中国において水産学校の創設に取りかかることになる。しかし、彼らの留学中の苦難や帰国後の活動の詳細については、これまで十分に検討されることがなかった。 本報告では、農商務省水産講習所をモデルとして創設された江蘇省立水産学校を取り上げ、当該学校の教員の履歴、教育カリキュラム、育成された主な水産人材、水産教育の普及のあり方などについて検討を加えたい。これらの分析を通じて、民国期中国における水産教育事業の展開および日中水産教育の交流の様態を明らかにしたい。 |
4.東北における中国共産党の宣伝戦略 ―北満根拠地のソ連宣伝を中心に― 広島大学 紀 勇振 ハルビンを中心とした北満根拠地は、内戦期に中国共産党が占領した最大の解放区であり、ソ連と連絡する主要なルートであった。北満根拠地の建設はソ連の援助や協力がなければ、順調に進展しなかったと考えられる。中共は貿易公司を利用して専用航路を開拓し、正式にソ連と貿易を行い、綿布、食塩、機械設備、医療用品などの商品のみならず、武器弾薬、無線電設備および燃料なども獲得した。したがって、積極的にソ連の支持を勝ち取ろうとする姿勢は、当時の宣伝基調のひとつであった。ソ連軍駐留地区の中共とソ連の関係についての研究は存在するが、ハルビンを中心とした北満根拠地というソ連軍が駐在していなかった地域におけるソ連に関する宣伝の実態は十分に究明されていない。本報告は、東北局の機関紙『東北日報』およびハルビン中ソ友好協会の『北光日報』、『蘇聯介紹』などを利用して、北満根拠地時期のソ連に関する宣伝について検討したい。 |
5.中国近現代における「国際主義」の展開 ―周鯁生を中心とした分析― 関西学院大学 森川 裕貫 第一次世界大戦の戦勝国となった中華民国では、ウィルソンの提唱する一四か条の原則が実現すれば、中国の国際政治における境遇も、国際協調の実現の下、大幅に改善されるとの期待が強まった。しかし、パリ講和会議において、山東権益の返還が実現しないことが明らかになると、期待は失望に変わり、五四運動の勃発を招いた。だが、国際協調に対する期待もまた根強く、国際協調を基調とした国際秩序構築に進むべきであると考える人々が存在していた。本報告では、そうした人物の一人である周鯁生に着目する。20世紀の中国を代表する国際法・国際法学の専門家である周鯁生は、国際協調論の立場から国際関係を秩序づけ、中国をもそのなかに位置づけるべく思索を続けた。彼は自らの立場を「国際主義」と呼び、第二次世界大戦後にいたるまで、その立場から言論活動を展開した。それらの言論を検討することで、中国近現代の国際協調論がいかなる内実を有していたのかを明らかにしたい。 |
6.インドネシアのバティック産業 和歌山高専 赤崎 雄一 インドネシアには「民族産業」として理解されている産業が二つある。丁字入りたばこ産業とロウケツ染めであるバティック産業である。この二つの産業は主に国内市場向けの産業であるが、オランダ植民地期から現代に至るまでインドネシア経済に大きな影響を与えてきた。特にバティックは2009年にユネスコにより世界無形文化遺産に認定され、現在、インドネシア国内外で非常に注目されている。本研究では、世界市場とのつながりを強めながらバティック生産が産業として成長した20世紀前半、バティック生産地の一つを例に取り、その地域性に注目しながら、生産の特徴、企業と労働者との関係、植民地政庁による介入などを検討する。 ジャワのバティックと言っても多様なデザインが存在する。それと同様にそれぞれの生産地では生産方法、世界市場との関わり方など大きな違いが見られることを明らかにしたい。 |
7.雲南最南部のタイ族地域に対する一八世紀半ばの清の認識 名古屋大学 加藤 久美子 清初までは雲南南部に中国王朝の直接的支配はごく部分的にしか及んでおらず、土着民族有力者には土司、土官の官職が与えられ実質上は彼らによる支配が認められていた。17世紀末になると、土司、土官の職を廃して官僚を派遣し(流官)、清の直轄地として支配する(改土帰流)地が増えていく。だが、現在の雲南省最南部のタイTai族地域、車里(シプソンパンナー)では、1728年から橄欖壩(ムンハム) と攸楽の改土帰流が試みられるものの実現はしなかった。その理由は(1)タイ族支配者を廃したことでその地のタイ族の多くがラオス方面に逃げてしまったこと、(2)直接支配のための町を建設しようとしたが、派遣された官吏、工匠のほとんどがマラリアなどで死亡してしまったことである。清はこの経験から、車里を改土帰流が困難な地であると認識して、その統治のあり方を模索することになる。清は車里北部において、タイ族支配者が存在しない地に普洱府を1729年に建て、現地のタイ族支配者と共存する形で思茅庁を1735年に設置する。18世紀半ばになると、ビルマでコンバウン朝が成立し、中国の土司職を持つタイ族支配者たちに、かつてタウングー朝ビルマに朝貢していたように、コンバウン朝ビルマに対しても朝貢をするよう要求する。また、コンバウン朝軍と清朝軍との戦いも起こる。これらのことを通して、清朝は、車里やより南のタイ族政権に対しての認識を深めていくこととなった。 |